ちんぽとちんこの桶狭間で

大学院生の日常。生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え。

諸行無常と賢者の石

諸行無常という言葉がある。

人はどのようなときに諸行の無常を感じるのだろうか。

 

学校に入学したとき?

学校を卒業をしたとき?

会社に入社したとき?

恋人ができたとき?

恋人に振られたとき?

プロポーズされたとき?

50m走のタイムが落ちたとき?

尿切れが悪くなったとき?

好きな子がシャンプーを変えたことに気づいたとき?

愛する人が死んだとき?

 

 

日常は無常に満ち溢れている。さすれば諸行無常などという、このありふれた物事を表す言葉があることは至極自然なことであろう。138億年前の宇宙開闢以来、ありとあらゆる物事が変化を経験してきた。

この宇宙において諸行無常であることはそれ自体が永劫不変であり、この2つの概念は相対するものではない。

無常であることは不変であり、それ故我々は無常を感知できるのである。

人は死ぬことの不変性が、人の歴史を無常なるものとし、その無常性は不変である。

 

 

 

古来より人々は賢人愚人問わず、この無常に抗ってきた。永遠の生命、不老不死である。

かのスイスの賢人、 フィリップス・アウレオールス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイムが賢者の石を所有し、医療に応用していたという伝説はあまりによく知られている。現代においてもips細胞等による再生医療の発達等、人は愚かにも不死への歩みを辞めようとはしない。

高度に発達した現代科学は伝承に記される魔法や錬金術における奇跡へと手をかけようとしている。

 

 

 それどころか最早その奇跡を実現していると言っても過言ではない。

 

 

 

新垣結衣という女優をご存じであろうか?

 

僕が初めて彼女を見たのは、マイボス・マイヒーローというドラマの中であったように記憶している。当時の僕はまだ幼く、プリンを求めて校舎間を飛行する長瀬を見て、高校というのは面白そうな所だという夢を描いていただけであった。

 

彼女が私の脳裏から呪詛の如く離れなくなったのはずっと後、全開ガールというこれまた祭にいる酔っぱらいの如く意味のわからないドラマを観て以降である。

作中の新垣結衣は、高貴な暮らしを望むエリート弁護士でありながら、平凡なバツイチ庶民と恋に落ちるというものである。

作品などどうでもよい。何はともあれ新垣結衣が形容する言葉もないほどに可愛いのである。恋に落ちるとはよく言ったものでその日以降僕は新垣結衣という深い深い谷から抜け出せなくなってしまった。

 

この日以降、僕は彼女を目で追うようになった。

彼女が僕を目で追っているかは定かではない。確認のしようがないからだ。

 

悲しいかな、僕が新垣結衣と相思相愛であったとしても、僕にはそれを確認する術がないのである。

 

 

先日、ふと新垣結衣の今の姿と昔の姿を観る機会があった。

僕は驚愕した。

僕のこれまでの人生、すなわち中学、高校時代、及び高校卒業以降、堕落した今日に至るまで歴史の全てが津波のごとく僕の脳裏に押し寄せてきた。

 それと同時にヒトの神秘に涙した。

彼女は僕の憧れたあの当時の姿のままであったのだ。

かたや、希望に胸踊らせていた若人が現代社会に絶望を感じる一方で、彼女はその姿を不変に保ったまま昔と変わらぬ笑顔で微笑んでいた。

 

無常性と不変性の交差点で、僕は開闢以来の全てを解したのである。

 

 

つまるところ、今も僕は新垣結衣にくびったけなのだ