ちんぽとちんこの桶狭間で

大学院生の日常。生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え。

童貞と解析関数

複素関数というものをご存知であろうか

高校でよく扱う関数f(x)の変数xが複素数zに拡張されたものである。

 

 

例えば、

f(x)=ix

と定義すれば、

f(1)=iであることや、f(1+i)=i-1であることが分かる。

 

 

さて、この複素関数の中でも特別な関数として解析関数というものが存在する。

 

~定義・解析関数~

複素平面上のある領域Dで定義された関数f(z)が、Dの各点の近傍で収束べき級数に展開できるとき、これを解析関数という。

 

つまり、D内の各点z'の近傍で、f(z)が

f(z)=a+b(z-z')+c(z-z')^2+....

と展開でき、さらにその和が収束するとき、f(z)を解析関数と呼ぶのである。

 

 

さらに、解析関数には、解析接続の際に重要な働きをする一致の定理という特筆すべき定理が存在する。

今回はその特別な場合を紹介しよう

 

~一致の定理(の特別な場合)~

複素平面上の領域Dで定義される解析関数f(z)について、

f(z)が実軸のある区間の上で0であるなら、それはDにおいて恒等的に0である。

 

この定理自体、非常に有用な定理であるが、今回のタイトルは、童貞と解析関数である。

 

小難しい話は忘れて、本題に戻ろう。

 

 

 

 

童貞という人がいるらしい。

 

これまでの生涯でセックスをしたことのない男性のことを言うそうだ。

すなわち、ある男性に対して、それまでのセックス回数をf(t)とすると、ある年齢をt'として、その年齢で童貞ということは以下のように定義できる。

 

~定義・童貞~

年齢をt'として、0<t<t'なる全てのtに対して、ある男性のそれまでのセックス回数関数f(z)がf(t)=0を満たすとき、その男性を「t'歳において童貞」という。

 

なんともはっきりとした定義の仕方である。

もちろん、このセックス回数関数f(t)は男性の人生のすべての時間領域Tにおいて定義できる。

なお、ここでは素人童貞は考えないものとする。

 

この定義により、以下のように「一生童貞」を定義する。

~定義・一生童貞~

ある男性について、人生のすべての年齢領域T上の全てのtに対し、

f(t)=0

 

 

 

 

さて、ここでセックス回数関数f(t)が複素解析関数であると仮定しよう。すると、一致の定理により、以下の非常に興味深い定理が示せる。

 

~エッチの定理~

ある男性について、20歳において童貞であるならば、

一生童貞である。

 

(証明)

ある男性について、20歳において童貞であるならば、

0<t<20なる任意のtについて、

f(t)=0.

したがって、一致の定理からT上のすべての時間tについて

f(t)=0.

したがって、一生童貞の定義より、男性は一生童貞である。

(証明終わり)

 

 

アッハッハッハ、どうであろうか。

以上のように、至極真っ当な数学的童貞の定義をすれば、複素関数論の超重要定理より、20歳まで童貞の人間は一生童貞であることが証明されるのである。

 

世の20歳童貞は驚嘆するがいい、世を儚み、自らの生を省み、脈々と引き継がれし汝のDNAに謝罪せよ。

貴君の今後の生には、後世に残せるものなど決してないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 賢明な非童貞の諸君はもちろんお気付きのことと思うが、以上の議論には大きな穴がある。

阿呆な童貞は気づかなかったであろう(笑



(もちろん阿呆でない童貞などは存在しないし、賢明でない非童貞は証明を読み終えると同時に自我の崩壊をきたし、虚数領域に呑まれたものとする。



エッチの定理の証明自体は完璧である。



問題は前提条件、


"セックス回数関数f(t)が複素解析関数であると仮定しよう。"


というところにある。



そもそも、セックス回数関数は、その定義から離散的な値をとるものであり、年齢領域Tの全ての点において解析的という仮定に問題があったのだ。



従って20歳童貞も安心してちょっと焦りながら今後の人生をおくってほしい。


 


複素関数に馴染みの薄い方々には、ややこしい言葉のオンパレードで気づきにくかったであろうか?




 

長々と書いたが、何が言いたかったかというと、

世の中には前提条件がオカシイ議論がたくさんあるように思えてならない

しかも、それを思考停止で鵜呑みにしている人々が多いのではなかろうか

ということだけである。

 

本記事は現代文の問題ではないため、作者の気持ちは記述しておいた。